南から来たフラミンゴはいまも唄い続ける
#0058
クリストファー・クロス、本名クリストファー・チャールズ・ゲッパート(Christopher Charles Geppert)は、北米テキサス州サンアントニオ出身のシンガーソングライターでありギタリストだ。
ギターをプレイするゲッパートと Bass のアンディ・サーモン、Keyboard ロブ・ミューラー(Rob Meurer)は10代の頃サンアントニオで出会ってバンドを結成。テキサス州の大都市オースティンに移り住んだ彼等はドラマーのトミー・テイラーを加えてバンド「クリストファー・クロス」を結成する。そう音楽キャリアスタート当時の「クリストファー・クロス」とは、そのギタリストであるゲッパートの名前を冠したバンドだったのだ。
彼等は金を稼ぐためにオールディーズや人気のPOPカバー曲をクラブやパーティで演奏しながら、オースティンにある Odyssey Sound (のちの Pecan Street Studios)でオリジナル曲のデモ音源を製作。これをレコード・レーベルに売り込む。しかも面白いことに、通例デモ音源には自らのオリジナル曲を入れてその芸術的才能をもアピールしようというケースが多いものだが、彼等は他人のヒット曲などカバーを中心にデモ音源をじっくり時間をかけて製作してレコード会社に持ち込むという手法をとっていた。結果的にそれは正解だったようだ。
1979年初頭ワーナー・ブラザースが、ゲッパートに対してソロアーティスト「クリストファー・クロス」としての契約をオファーする。彼らは自分たちをバンドだと考えていたが、その契約額は180万ドルという新人に対しては途方もない提示額で、8枚のアルバムを製作する条件も含めて「投資」ともいえるものだったのだ。
このニュースは彼らを知るオースティンの街の人も驚かせた。彼等が知る限りクリストファー・クロスの音楽は、あくまでもカバー曲をジュークボックスの如くプレイするパーティバンドだと認識していたからだ。彼らがクリストファー・クロスのオリジナル曲をプレイしているのを聴く機会は殆どなかったほどだ。
これについてゲッパート自身こう答えている。「(デビュー前に自分達のオリジナル曲を)過度に露出したくなかった。アルバムが発売された時に多くの人々に買ってもらいたいと考えていた。アルバムが完成したらみんなに楽しんでもらいたかったんだ。」
こうしてクリストファー・クロスのデビュー作となる1stアルバムは 1979年5月初旬にピーカン ストリート・スタジオで録音が行われ、LAでオーバーダビングとVo.トラックをミックスして完成。スティーリー・ダン(STEELY DAN)の楽曲アレンジを数多くこなしていたワーナーブラザーズの社内プロデューサーであったマイケル・オマーティアン(Michael Omartian)が彼等のプロデュースを担当した。
1979年12月セルフタイトルのデビューアルバム『Christopher Cross』がリリースされると、その反応はゲッパートが語っていた以上の結果をもたらす。
このアルバムからシングルカットされた M-6. “Ride Like the Wind” (マイケル・マクドナルドがバッキングVo.を担当)はビルボードHOT100で最高2位を記録。M-8. “Sailing” は1週間だが1位を獲得した。
さらに翌年、このアルバムとシングル “Sailing” は、第23回グラミー賞で6部門にノミネートされ、“Sailing” で最優秀レコード賞と最優秀楽曲賞を,アルバムで最終週アルバム賞を獲得。クリストファー・クロスは最優秀新人賞を獲得したため主要4部門を独占することになった。これは長いグラミーの歴史の中でも(同じ年に)主要4部門を独占した初めての快挙だった。
記憶にも新しいビリー・アイリッシュが2020年に第62回グラミー賞で同じく新人賞を含む4部門独占を達成するまで、実に39年間、誰も再現する者がなかった偉業だ。さらに “Sailing” には、Best Arrangement Accompanied Vocalist(s) が授与されており、この年クリストファー・クロスは5部門を独占したことになる。当然ながらアルバムのセールスも大ヒットとなり、その後、5回のプラチナ認定を受けて500万枚以上を売り上げた。
ちなみにこの年のグラミーのアルバム賞ノミネートには、ピンク・フロイド『The Wall』,ビリー・ジョエル『Glass Houses』といった怱々たるアルバムが出揃っており、こうしたベテラン達を抑えて新人が受賞したということも大変価値が高い結果だった。ワーナーブラザーズの重役達は溜飲を下げたことだろう。
こうした実績から、クリストファー・クロスは、そのボーカルとソングライティングの才能で広く知られているが、実は卓越したギタリストでもある。スティーリー・ダンのドナルド・フェイゲン(Donald Fagen)とウォルター・ベッカー(Walter Becker)が彼らのアルバムにギタリストとして参加するよう求めたこともあった。(クリストファー・クロスはこれを断っている)
そしてなんといっても驚くべきエピソードなのは、1970年ディープパープル(Deep Purple)のコンサートツアー中にリッチー・ブラックモア(Ritchie Blackmore)がインフルエンザ予防接種の副反応で急な体調不良となってしまった際に、その代役ギタリストを務めたということがあるというのだ。
長年の作曲パートナーであり、アレンジも務めていた友人ロブ・ミューラーは「1970年にクリスと私が(サンアントニオの)テレルヒルズにある彼の両親のベッドルームに座って、音楽アルバムを作ろうと夢想していたときから、グラミー賞獲得が現実に実現するまで10年かかった。それにクリスが演奏できるのは “Sailing” だけだと思っている人は多いが、彼がフライングVとマーシャルのスタックから始めて、ようやくここまで来たことをみんな知らないんだ」と語っている。
The Reluctant Celebrity: Christopher Cross – Music – The Austin Chronicle
またゲッパート自身もこの時の体験について
The Reluctant Celebrity: Christopher Cross – Music – The Austin Chronicle
「エリック・ジョンソンがオープニングだったので彼のマーシャルアンプを使った。自分が知っているディープ・パープルのナンバーとブルースを演奏してなんとか乗り切ったんだ。彼らを空港まで送ったあとリッチーに会ったら彼はお礼にピックをくれてとても親切にしてくれた。すごく感激したよ!彼は私にとって偉大なギタリストなんだ」とインタビューで答えている。
いったいどんなステージを見せたのか?そんな想像をするだけで楽しくなるとんでもエピソードだ。
クリストファー・クロスが下積みバンド時代に多くを学び、そしてグラミー賞アルバムを録音した Pecan Street Studios は、その時OPを務めたエリック・ジョンソンの1stソロアルバム『Seven Worlds』が録音されたスタジオでもあり、こうしたソフトロックやヨット・ロックと呼ばれるジャンルの作品を数多く生み出したことで知られている。それらは現代のチルウェーブ(Chillwave)に繋がる源流とも云える音楽スタイルだった。そしてエリック自身も『Christopher Cross』にはゲストとしてギターで参加している。
1984年以降、クリストファー・クロスの商業的成功は衰退していく。MTVにマッチするジャンルや楽曲がアメリカの音楽シーンのメインストリームを席巻するようになり、彼のようなラジオで流れてきた時に軽やかに口ずさめる音楽のスタイルは時代に合わなくなってきたのだ。クリストファー・クロスに代表されるようなアダルト・コンテンポラリー・ミュージック(AOR)はみな同じようにこの時期に人気を失っていく。
しかしクリストファー・クロスは、例えヘッドライナーから外されて前座として呼ばれたステージであっても変わることなく長く地道に音楽活動を続けてきており、2021年にリリースされた最新シングル “MaryAnn” でも、往年の変わらぬクリアな歌声と高いレベルのAORサウンドを聴かせてくれている。
近年、彼はギラン・バレー症候群の発作を起こし、足の神経が正常に機能しなくなることを医者から告げられた。2020年10月までにはリハビリにより杖をついて歩けるまでになったが、彼の記憶領域や言語野にはその影響が出ていたと述べている。しかし2020年コロナ禍で延期されていた40周年記念コンサートツアーを2022年に開催するなど、今も精力的かつマイペースに音楽活動を続けている。
不死鳥のごとくフラミンゴはステージに立ち続けているのだ。
Origin : | San Antonio, Texas, U.S. ![]() |
Released : | 1979. 12 .20 |
Label : | Warner Bros. (Warner Records Inc.) |
Producer : | Michael Omartian |
Studio : | Pecan Street Studios (Austin, Texas) , Warner Bors. Recording Studios (North Hollywood, California) |