ロンドンは燃えていたのか?
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1970年代に勃興したパンクムーブメントは当時のイギリスの社会状況や政治背景を大きく反映している。
セカンダリーバンキングに傾倒した60年代以降、いわゆる「ゆりかごから墓場まで」と呼ばれる社会保障の充実と基幹産業の国有化を進めてきたイギリスは、資本の海外流出と産業保護による国際競争力の低下を招き、1970年代には労使紛争が絶えない長い経済不振へと陥っていく。のちに「英国病」とも呼ばれるよな深刻な状況だった。
長く低迷した経済に街では失業者が溢れていた。そうした閉塞感や社会への不満は都市郊外に住む労働者階級の若者を中心に先鋭化していく。WWIIで勝利したものの疲弊した国力=労働力の不足を補うため海外から積極的に受け入れてきた移民やその子供たちに対して、その矛先を向ける者達が現れたのだ。
特に極右政党「イギリス国民戦線」(British National Front)= NF は白人至上主義を公然と掲げ、移民の受け入れ停止と既存居住移民の国外強制退去を求めていた。ネオナチと呼ばれるほどのファシズム思想を背景にしながらも「スキンヘッズ」と呼ばれた若者達を中心にNFは急速に支持を伸ばしていく。
また当時の保守党下院議員イーノック・パウエルはバーミンガムでの保守党集会において移民流入を非難してこれを排斥する発言を繰り返していた。そして残念ながら当時のエリック・クラプトンやロッド・スチュワートは彼のそんな政策を支持することを公然と表明し、あのデビッド・ボウイですらファシストのリーダーを待望する意見を述べたりしていた。
一方で、こうしたカルチャー面でさえ排他的人種差別的な機運が高まりつつあったことに危惧を感じ、またストリートにおける人種差別主義者による移民への襲撃などに反発して生まれた政治的文化的運動が Rock Against Racism(RAR)だった。
1976年頃から RAR の活動家たちはイギリス各地でライブやカーニバルを運営する組織を作り上げこうしたイベント集会を積極的に開催した。彼等の標榜するテーマのひとつに「レゲエ、ソウル、ロックンロール、ジャズ、ファンク、パンク」というスローガンがあり、黒人と白人双方が音楽に対する共感により相互理解を深めその結びつきを強めようというもので、この運動により若者たちが安易に人種差別主義を受け入れることを阻止しようと考えていた。
そんな時代と社会背景のなかザ・クラッシュ(The Clash)は1976年ロンドンで結成される。

彼等が激しいライブパフォーマンスと共にステージで唄う歌詞には旧態依然として変わることのない階級社会への不満や、閉塞した若者達が抱いていた政治屋や特権階級への批判が投影されており当時の若者達に支持されるようになる。そしてセルフタイトルのデビューアルバム『The Clash』(1977)とそれに続く2nd『Give `Em Enough Rope』(1978)はイギリス国内市場において批評的にも商業的にも成功を収めることになる。
これによりザ・クラッシュは必然的にブリティッシュ・パンクロックの中心的存在となっていった。
そしてそのデビューアルバムに収録されていたセンセーショナルなナンバーが M-4. “White Riot” だ。
問題はその歌詞の解釈にあった。
White riot - I wanna riot White riot - a riot of my own 白い暴動 - 暴れたいんだ 白い暴動 - 自分のための暴動 Black man gotta lot a problems But they don't mind throwing a brick 黒人はたくさんの問題を抱えている でも彼らはレンガを投げるのを気にしない White people go to school Where they teach you how to be thick 白人は学校に行く そこでどうやって鈍くなるかを教えられる And everybody's doing Just what they're told to みんなやってる 言われたことだけを And nobody wants To go to jail 誰も望まない 刑務所に行くことを
White riot - I wanna riot White riot - a riot of my own 白い暴動 - 暴れたいんだ 白い暴動 - 自分のための暴動
The Clash "White Riot" by Joe Strummer & Mick Jones (c)1977 Sony BMG Music Entertainment (UK) Limited
この歌詞は、当時のイギリスで不満を抱えていた若者達を中心に大いに共感を得たわけだが、先の極右政党NFはこれこそ自分達が求めている白人至上主義への賛歌であり白人による現状への怒りを表明したものだと考えたし、一方RARのメンバー達はレゲエをアルバムに取り入れていた The Clash こそ自分達の運動を理解した体現者であり、若者に絶大な人気支持を受けていた彼等をなんとしても自分達のイベントステージに出演させたいと考えたのだ。
この背景はとても面白い。映画や音楽などエンタテイメントにおいてそこに込められた歌詞やメッセージは必ずしも直接的なものではないため多くの人が色んな解釈をする。そしてそのことは多様性や感受性の違いを許容する第一歩であり、いまでは多くのアーティストがこの寛容さを求めることが主流となっている。
しかし当時のイギリスにおいてはこの若きパンクヒーローがどちらに与する者かが重要だったのだ。
1978年4月30日 RAR運動に共感したイギリス全土の若者が集まり、およそ10万人の人々がトラファルガー広場からケーブルストリートを経由してイーストエンド(NF国民戦線のお膝元となっていた地域)まで6マイルほどデモ行進を敢行する。そしてデモの一団は最後にハックニーにあるヴィクトリアパークで開催された野外コンサートに参加した。
この野外コンサートには、レゲエのスティール・パルス、ゲイ解放を訴えていたソングライターのトム・ロビンソンが率いるバンド、パンクシーンの一翼を担ったXレイ・スペックス、同じくシャム69のフロントマンであるジミー・パージーらが出演していた。(パージーもまた彼等の音楽を支持するスキンヘッズへの違和感に悩んでいた)
そしてザ・クラッシュもこのステージに上がり、ジミー・パージーとともに “White Riot” を演奏する。彼等は自分達の行動で示すことで自分達が政治的にどういう立場を支持するかを明確にしたのだ。
このあたりのストーリーは、当時のRAR関係者のインタビューを中心に構成したドキュメンタリー映画『白い暴動』(White Riot)で克明に描かれており、プライムビデオ・Hulu・U-NEXTあたりで観られるので興味のある方は是非この映画を観てみてほしい。
このデビューアルバムに収録された曲は、レゲエのカヴァーナンバー M-12. “POLICE AND THIEVES” 以外は、ほぼギタリストのジョー・ストラマーとミック・ジョーンズによって作曲されている。
先に紹介した “White Riot” だけでなく、M-1. “Janie Jones” や ”London’s Burning” など彼等のセッションから生まれた数曲はパンクロックにおけるアンセムとなりシングルチャートにおいてもパンクロックというジャンルを認めさせる大きな存在感を示した。
このアルバムでは、ジョーンズとストラマーがギターとヴォーカルのフロントをポール・シムノンがベースを担当している。しかしドラムトラックは複雑でUK盤では当初メンバーだったテリー・チャイムズがドラムを叩いていたが CBS Records との契約時にはトッパー・ヒードンと交代したため、リイシューされた1979年に発売されたUS盤の何曲かはドラムトラックをトッパーが叩いたものにミックスし直している。
その後、ザ・クラッシュは3rdアルバムで名盤『London Calling』を世に送り出しアメリカにおいてもブリティッシュ・パンクロックの矜恃を示してみせた。そしてそれはさらに彼等の音楽的な拡がりを後押しすることになり、レゲエに留まらずダブ,スカ,カリプソ,ラテンミュージックなどワールドワイドな音楽要素を取り込んでいくことになる。
Origin : | London, England, U.K. ![]() |
Released : | 1977. 4. 8 |
Label : | CBS Records |
Producer : | Mickey Foote |
Studio : | CBS (London), National Film and Television School (Beaconsfield) |